

みなさん、こんにちわ。
私は、出産関係の仕事をしている、きくちさかえと申します。このたび、ワールドスクールのウォレアイでのプロジェクトに、冒険家の高野さん、大前さんに同行させていただく幸運を得て、11月4日から17日までの2週間をウォレアイで過ごすことができました。毎日、ウォレアイでのワールドスクールでのクラスに参加し、ほかの時間は、ビーチに建てられたヤシの葉でふいた小屋で過ごしたり、それはそれは美しい海で泳いだり、島の子どもたちと遊んだりしていました。
私の仕事は、出産に関する情報を集めたり、研究したりして、妊娠している人や助産婦さんに、その情報を伝えることです。さて、今回ウォレアイに行った一番の目的は、産小屋を見にいくということでした。
みなさんは、自分がどこで生まれたか、知っていますか。ちょっと考えてみて下さい。多くの人が「病院」あるいは「近くの産婦人科」と答えるでしょう。そうです。日本では、もう40年も前から、ほとんどの人が病院や産婦人科医院で生まれているのです。でも、その前はというと、日本でも多くの人たちが自宅の畳の部屋で生まれていました。そのもっと前は、村はずれに建てられた「産小屋」というところで、お母さんたちは出産し、赤ちゃんは産小屋で生まれていた時代もあります。
日本にはもうその産小屋というものはとっくになくなっているのですが、なんとウォレアイには、まだあるという話を聞いたので、私はぜひその小屋を見てみたいと思ったのです。
実は私の宿泊していたビーチに建てられた小屋、それが産小屋として使われているものだったのです。別段特徴のある建物というわけではなく、ほんとうのほったて小屋。でも、ビーチの目の前なので、水浴びするのには、とても便利です。
こうして、ウォレアイの赤ちゃんたちは、ビーチの前に建てられた小屋で生まれます。島には医師も看護婦もいません。医学的な訓練を受けた助産婦もいない。その変わりに、昔から何人も赤ちゃんをとり上げてきた経験のある産婆という人がいます。赤ちゃん誕生のときには、必ずそうした産婆と、家族の女性たちが何人か付き添います。
日本でも昔、そうですね大正時代、地域によっては戦前くらいまでは、免許のない産婆と言われた人が、お産を取り上げていましたから、同じです。
ウォレアイでは今も、病院ではなく、産小屋で赤ちゃんが生まれるというお話でした。
●病気の老人の家
さて、ウォレアイでは、赤ちゃんが生まれるのが家、という話をしました。それでは、誕生の反対にあたる、死ぬほうはどうでしょうか。
日本では、誕生と同じように、人が死ぬときも病院で亡くなります。今はこれはあたりまえのこととされています。でも、ウォレアイでは、病院がありません。人は自宅で亡くなります。日本でも、昔の人は自宅でみんな亡くなっていたのです。
さて、私がウォレアイに滞在していたちょうど1週間が過ぎようとしていた頃です。いつもいっしょに私の小屋で寝ていたティアーナという女性が小さな声で「親戚のおじさんが病気なので、行かなくちゃ」と言うのです。小屋のすぐ隣りに住む、私の世話をしてくれていたおかあさんも「病気の親戚のところへいかなくては」と、その日から、まわりの女の人たちは、なんとなくセカセカした状態になりました。
どうしたのだろうと思っていたら、その晩、ティアーナはとうとう帰ってきませんでした。
次の日、おかあさんが「いっしょに病人の家にお見舞いにいこう」と言いました。その家は、ティアーナの家の隣りで、石の土台の上に建った木造の比較的大きな家です。ウォレアイの家はどこもそうなのですが、中はワンルームで、天井はなく、梁や柱が見えています。その梁や柱に、ラバラバやシーツや釣道具などをかけています。家具は、その家の場合には、部屋の中ほどに大きな冷蔵庫があり、そのほかはほとんど家具はありません。
家の端から入ると、中にはすでに15人くらいの人が床のヤシの葉でつくった敷物の上に座っていました。みんなの中央には、布団に寝た老人が横たわっています。やせ細った老人は、娘や親戚のおばさんや、おばあさんたちに囲まれて、苦しそうな表情でした。その老人は、すでに1年も前から病気で、ほかの島の病院にまででかけて行って、手術も受けたそうでうすが、よくならず、島に帰ってからは寝たままの生活だったそうです。それが、急に様態が悪化したのでしょうか、昨日から急に親戚が集まって、みんなで看病する体制になりました。
老人のすぐそばにいる人たちは、ヤシの葉でつくった団扇であおいだり、老人の背中や肩をさすったり、ときどき声をかけたりしています。その人たちの後ろには、たくさんの人が中央の老人や介護の人々を見ています。夕方でした。近所の人々が、食事を終えて、次々と集まってきます。人数はどんどんふくれ上がり、一番後ろにいた私も、だんだん前へつめて座らなければなりませんでした。
40人くらい集まったころでしょうか。だれからともなく、歌が聞こえてきました。すると、それに呼応するように、たくさんの人が歌い始めました。それは、教会で歌われる聖歌でした。ウォレアイはキリスト教なので、毎週教会に集まって、みんなで歌を歌います。いつも練習しているというだけあって、女も男も、美しい声でちゃんとハモッています。聖歌といっても、西洋的なものではなくて、南国の島らしい、のんびりしたメロディーでした。
やわらかい歌声が流れ、あたりは薄暗くなってきました。闇の中に流れる美しいメロディー。みんな、病いの老人が、少しでも癒されてほしいと願っているようでした。その場には、子どもも高校生も、若者も、おじさんもおばさんも老人たちもいました。病気の老人のためにみんなが集まってきていたのです。
その会は、その日だけでなく、その後もずーっと毎日続きました。毎日、みんなが顔をだし、直接看病している家の人たちを支える役目もしていたのでしょう。
みなさんは、おじいさんやおばあさんや、親戚の人の看病をしたことがありますか。お見舞いをしたことはあるかもしれませんが、毎日、行ったことはありますか。 日本や西洋の国々では、病院での看病は家族の特定の人に任されていることが多く、お見舞いといっても、なかなか毎日というわけにはいきません。なぜでしょうか。どうやら日本人は、お見舞いも大事ですが、ほかにすることがいっぱいあるようです。日本人は、大人も子どもも忙しいのです。
実を言えば、その老人の病気は、ほとんど治らないのです。死をまじかにしているのです。死を迎えるその人のために、親戚が大勢集まってきていたのです。私は、死を迎えようとしている人をよーく見たのは始めてでした。しかも、そんなに多くの人に囲まれた病人を見たのも始めてでした。
私は、帰る日まで、毎日その老人の家に行きました。いつも後ろのほうで、遠くから眺めているだけでしたが、帰る日には、一番前の席を与えられて、初めて団扇で老人をあおぐ役をいただきました。そして、帰る間際には、老人の手を握ってお別れを言いました。老人は意識ははっきりとしていて、話かけると答えます。家族の人が「この人は、今日のヒコーキで、日本に帰るんですよ」と言ってくれたので、老人は私のほうを目でジロッと見て、「また、くるか」と、なんと日本語で言ったのです。
日本人の多くは病院で亡くなります。病院は、家とはまったく違うので居心地のいい場所という感じはしませんし、そんなにたくさんの人がお見舞いにいくわけにもいきません。家族も親戚も、いっしょにいたいとは望んではいても、やはり忙しいので、なかなか病院の病室でずっと看病することはできないんじゃないでしょうか。
でも、このウォレアイの老人は、何日も何日も親戚の人々が囲まれ、病気で苦しみながらも、けして孤独になることはありません。私は老人の家に通いながら、「死」について毎日考えていました。みんなさんにとって「死」は、果てしなく遠い先のことですが、年をとると人間はだんだん死に近づいていきます。死へ向かうことは辛いことですが、人間には避けて通れないことなのです。
その死を迎えるとてもいいやり方を、このウォレアイで見たような気がします。
きくちさかえ
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